東日本大震災から4カ月あまりたちました。現地はどのような状況になっているか、調査に行ってまいりました。
日程は、1泊2日。同行者は、大石のぶお藤枝市議・佐藤まさし吉田町議・杉田げんたろう中部地区常任委員・笹川朝子元富士川町議・植松信子富士市在住党員、と私の6名です。
なお、今回は正式な行政調査ではなく、党や議員としての自発的な調査ですので、交通費・宿泊費など全て自費での調査です。
車1台に乗り合わせて、朝4時に出発しましたが、途中パンクのアクシデントや首都高の通行止めなどの影響で、一日目は宿泊地の盛岡まで行くのがやっとで、実質的な調査は2日目からとなりました。
翌日は、朝6時に盛岡を出て、106号線を約2時間かけて宮古市へと向かいました。
道中は、何事もない様子だったのですが、宮古市に入ると状況が一変しました。
最初に訪れたのは、閉井川(へいがわ)の堤防ちかくにある宮古市役所ですが、津波が堤防を乗り越えて1階部分が壊滅状況でした。
宮古市からしばらく海岸線を北上し、約30分で田老地区(旧田老町)につきます。道路自体は、通常に走行できますが、行きかう車は、警察や救援関係の車が多かったです。
田老町は、昭和8年に襲った大津波で、911人の死者を出しました。それを教訓とし、50億円かけて防波堤を作りました。
この防波堤は、高さ10m、幅が一番あるところで25m、しかもそれを二つも作りました。無駄だ、いらない等の声もあったようですが、まるで要塞のような巨大防波堤で町を囲ったのです。
その後1960年におこったチリ地震では、他の三陸の町がのきなみ津波被害を受ける中、田老町だけは、この防波堤で無傷で済み、”万里の長城”とまで呼ばれ、海外からも視察が絶えなかったそうです
その堤防が今回の震災では役に立たなかった事は、報道等で知っていました。
しかし、実際現場に行ってまず、町がほとんどなくなっているという光景というのはどれほどひどいものか、足がすくみました。
左の写真は、最初はただの雑草地かと思いました。しかし、よく見ると家です。家のあった場所なのです。住宅の基礎部分しか残っていないのです。家がまるごと流されてしまっているのです。
こんな光景があたり一面に広がっているのです。
津波は、やすやすと二つの防波堤を乗り越えて町を襲ったのです。ほとんどの建物が流されていました。
残っているのは、高台にある住宅か、奥のほうに位置している小学校など、後は、鉄骨の建物が枠組みだけがむなしく建っている。
たまたま行きあった地元のおばあさんに話しかけると「このあたり全て流されてしまった」と力なく答えてました。そして宮古市の病院に行くとバスに乗って行きました。三陸鉄道は不通ですが、路線バスは動いており、海岸沿いを走る国道45号線は、ほぼ支障なく通行が出来ました。
しかし、住民の姿はほとんどなく、ガレキ処理の作業をしている人たちがいるばかりです。
陸側にある2つ目の堤防に登ってみます。この堤防は、ちょうどオムスビを陸においた格好になっています。ところどころ車が通り抜けできるよう”トンネル”がありますが、もちろん頑丈な扉がありました。厚いコンクリートで覆われた堤防が二つもあるわけですが、津波はこの堤防をやすやすと越えていって町を襲ったのです。
堤防の上から市街地をみます。手前の空き地は集落があった所です。ガレキは既に撤去されています。白い建物が上の写真にある農協跡。奥のほうの人家は、流されていません。
更に堤防を歩いて行くと、驚愕の光景が。堤防が破壊されているのです。沖側にある第1堤防の北半分が津波にやられて跡かたもなくなっているのです。
津波は高さだけではないのです。すさまじい力・パワーがあるのです。こんな頑丈な堤防をも破壊するものすごいパワーです。
中電が浜岡の安全対策の一つに挙げている”砂丘”など、なんの役にも立ちません。
津波の教訓を活かしたこの町でしたが、今回の津波はその教訓すら打ち破って行きました。
この町が、復興するまで一体何年間かかるのでしょうか。
その後、車は南下し、宮古市を過ぎて三陸海岸沿いを岩手県から宮城県へと向かいましたが、その間の光景も正に目を覆うばかりの信じがたい光景の次々でした。
海に面している集落という集落は、ことごとく津波にやられています。
どの街も、田老町ほどではないものの、必ずといっていいほど防波堤を備えているのですが、それがまったく役に立たず町が壊滅してしまっているのです。
宮古を過ぎ、途中の陸中山田町は比較的大きな町ですが、ここも防波堤が破壊されており、町の3分の2がなくなっていました。
陸中山田を過ぎ、しばらく南下すると町長が亡くなったという大槌町(おおつちちょう)があります。
ここは、小さな町であったようですが、何も残っていませんでした。
たまたま、通りかかった介護関係の仕事をしている人に聞くと、大槌の住民は1人もここに残っていないと…今、ここにいる人は復興工事関係とボランティアの人だけです。
そして、この大槌町も陸中山田町もそうだったのですが、悪臭がひどいです。
どうも、魚関係の臭いみたいですが、これによってハエが大発生しています。伝染病などの二次災害もとても心配です。
また、復興関係のダンプが行き交うために、土埃もすさまじいものがあります。大槌町では放水車も出動していました。現場で作業する方の健康問題も大変な課題だと感じます。
さらに南下して行って、大船渡市と過ぎ市長の奥さんが亡くなったという陸前高田市へ。
ここも、まったく家と言う家がなくなっている壊滅状態。津波が川を遡ったと言われている気仙川の河口近くには、3階建ての中学校がありましたが、鉄骨部分だけが残るのみでした。
地震発生時は、もちろんたくさんの生徒がいたはずですが、安否はどうだったのでしょうか。いたたまれない気持ちになります。
最終地点は気仙沼市です。
ここは、大火災が起きたところです。
私事ですが、気仙沼は、議員になる前の添乗員時代に仕事で来たことが何度かあり、港の周辺には、おいしい寿司やがたくさんあって、お客さんを案内すると、美味しいと喜ばれたところです。
ここでしか食べれないような、とれたての”生サバ”や”ふかひれ寿司”がとても好評で、私も大好きでした。
そういった思い出がある気仙沼ですが、その港周辺もがれきの山と火災の跡。言葉が出ませんでした。
私は、翌15日に常任委員会があるので、気仙沼から大船渡線と新幹線で静岡へ帰りましたが、本隊は、その後福島の原発被災地に調査に行きました。
そちらは、また津波とは異質の光景があったようです。飯館村では、誰一人住民がいなかったこと。半径20k以内は立ち入り禁止だったとの事等、聞きました。
こうした被災地は、やはり一度実際に見ないとわかりません。
特に、私は、津波のパワー。津波は高さだけで推し量れるものではなく、防波堤をも破壊するすさまじいパワーをもっているのだと改めて認識しました。